分かち合う交わり

■聖書:使徒の働き242-47節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。(46-47節)

 

1. はじめに

CSキャンプの宝物 大切なものであるほど、分かち合うことが難しい私たち。

・青年会の今年度のテーマとなっている箇所です。

 

2. 教会の始まり

 本日の箇所、日本語聖書では43節から新しい段落が始まっていますが、元々のギリシャ語を見ますとそのまえの42節から区切ったほうが良さそうです。ペテロ達、使徒によって救われた3,000人もの人々がいて、その人々によって形成された最初の教会の様子が描かれているのが本日の箇所です。42節、そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。これは一つの要約のような言葉です。教会の最もシンプルな、そして欠けてはならない要素がここにあるのです。彼らは皆、「使徒たちの教えを堅く守」っていたと言われています。使徒とはイエス様と一緒に旅をし、寝食を共にしていた弟子たちであり、イエス様の復活の証人となるために召された人たち(使徒1:22)と言われています。ですから、この最初の教会の人々は、使徒たちが証しするイエス様の教えを堅く守っていたというわけです。それはまさに聖書、神のみことばに堅く立っていたということです。これが、教会の第一に挙げられているのです。

 これらについて話し始めたらキリがないのですが、本日はこの42節の中でも特に二つ目の「交わりをし」という言葉に注目し、これのさらに具体的な実践が描かれている43節以下を読んでいきたいと思っています。教会とは何かを考える時、ここにその豊かさと言いますか、あたたかさが表れているように思うのです。自分の居場所について迷っている方が非常に多くいるように思います。実の家族であっても疎遠になり、あるいは自分でも自分のことを受け入れられないような時代にあって、本日の箇所に映し出される初代教会の姿は、シンプルではありますが、本当に豊かなものです。今日の社会ではいよいよ見出せなくなっているような姿があるのでした。教会に連なる私たち一人一人はどのように生きていくのか、教えられたいと願います。

 「交わりをし」と簡潔に書かれていますが、この「交わり」とはなんでしょうか。教会ではよく耳にする言葉ですが、これは単に一緒にいる、交流をする程度の意味ではありません。ギリシャ語ではコイノーニア、「共有する」という意味がありました。言い換えるならば、この交わりは、何か一つのものを共有する群れであったということです。43節以下には生活の様々なものを共有にしていたとありますが、これも同じことばです。一つのものを共有する交わりである教会の、具体的な実践として、そのように生活の様々なものを共有していたというのです。この群れを特徴付ける、いわば核となるものを皆で共有していたのです。それは、時代や場所を超えて、すべての教会が共有にしているものであります。二つのことを覚えたいと思います。

 一つには、この人々がペテロの説教を受け入れ、バプテスマを受けた群れであったということに示されるところです。バプテスマとは、イエス様を信じた者が自分の罪を悔い改め、まさに生きる方向を変えるときに受けるものです。古い罪人の自分が死に、主のいのちをいただいた新しい自分が生まれ、生き始める。第二の誕生日です。つまりここにはイエス様が十字架にかかって勝ち取られた贖いと、三日後に死に勝利して獲得された新しいいのちが、私たちに与えられるというのです。教会とは、このお方のいのちに預かる群れなのです。このお方のいのちが一人一人に与えられ、共有していると言えるのです。

 イエス様が最後の晩餐の席でお話になったものに、ぶどうの木の話があります。イエス様がぶどうの木で、私たちは枝である。枝は、このお方につながっていなければすぐに枯れてしまいます。反対に、その枝自体はつまらなく、それまでは酸っぱかったり苦かったりする実を結んでいたような枝であったとしても、このまことのぶどうの木に繋がる時に、豊かな実りを見ることができる。人々を潤し、喜ばせ、本当に生かす生き方ができるようになる。私たちは、このまことのぶどうの木であるイエス様につながる一つ一つの枝であります。それぞれに違いがあっても、それぞれに強さや弱さがあっても、同じ木に繋がれて、同じ木の養分が流れている、同じ木のいのちが巡らされている枝。ここに教会の交わり、「共有」の一つを見ることができるのです。一つ目の共有しているものは「イエス様のいのち」でありました。

 

 さらに二つ目の共有は、「イエス様の教え」です。先ほども、「使徒たちの教えを堅く守り」についてはお話ししました。いのちが与えられている、それを共有している。それはとても大切な、私たちの群れの核となるものであります。しかしそれだけではなく、生まれたばかりの命を導く「教え」が必要なのです。新しいいのちが与えられていても、正しく導かれなければひどいことになってしまう。旧約聖書を読んでいますと、律法がどれほど大切なものなのかに気づかされます。誰もが驚く奇跡をもってエジプトの地から救い出されたイスラエルの民、まさに救い出されいのちが与えられた彼らを、神様はそのままにはされません。神の民としてふさわしく整えられるのです。時に試練の道を通し、そして律法を与えて神様に喜ばれる生き方、神様の子供として神様のもとにとどまり続ける生き方を教えておられるのです。この「教え」が私たちには与えられ、教会はこの教えを共有しているのです。

 

 このように、いのちと教えを共有している交わり、それこそが、キリストの教会であると言えるのです。思えば、イエス様はご自身がいのちであると言われていますし、ヨハネの福音書の最初ではことばであるといわれています。そういうことを考えますならば、教会が共有する「イエスのいのちと教え」とは、イエス様ご自身と言い換えても良いでしょう。いずれにしても、最初の教会の時代からこれはいつも教会の中心にあったのです。他の何かによって結びつけられたものではなく、人間の好き嫌いで形成される群れでもなく、ただ、イエス様が中心におられ、イエス様のいのちと教えを共有するものが教会なのです

 

3. 交わりに生きる教会 共有する教会の実践

 では、イエス様のいのちと教えを共有する交わりである教会は、現実の社会にあってどのようにこのお方を証ししていくのでしょうか。続く43節、そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。この弟子の仲間に加えられた人々、イエス様を共有する教会の心にあったのは「恐れ」です。もちろんそれは恐怖の感情ではなく、主を知る者の恐れと言えるでしょう。畏怖、畏敬とも言われる言葉で、人の想像をはるかに超えた存在を前にするときに、人はこの恐れを持ちます。イスラエルの民たちは主の聖なる顔を見ると死ぬと考え、またその聖なる名前を口にすることさえも恐れて、今日では名前の読み方がわからないと言います。笑い話にも聞こえますが、それほどまでに、神様とは「恐れるべきお方」、罪に汚れた者が軽々しく口にすることさえはばかられる存在なのです。この辺は今日の私たちも学ばなければならないところのように思います。人はこの恐れがあるからこそ、赦された喜びを知り、主の前にひれ伏し、ここに礼拝が始まるのです。

 使徒の一人であるペテロ、直前には人々の心につきささるメッセージをした彼もまた、この恐れを持っていました。漁師であるペテロは、一晩中船を出して漁をしましたが一匹も獲れなかった。そんな中でイエス様は言われます。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」漁に関しては素人です。ペテロたちもそれでどうなるとも思っていなかったのでしょう。しかしそのとおりにすると、船いっぱいの魚が取れた。一つの奇跡物語です。しかしこの話で大切なのは、この奇跡を目撃したペテロの反応でしょう。これを見たシモン・ペテロは、このお方を祭り上げたりするのではなく、イエスの足もとにひれ伏して言いました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」思えばペテロはたくさんの失敗をした弟子でした。何か青臭さが残ると言いますか、成熟しきっていない生々しい弱さを私たちに教えてくれます。けれども思うのは、やはり彼はこの恐れるべきお方を恐れるという感覚をしっかりと持っていたということです。確かに失敗をすることも多くあったけれど、彼の心の、何か聖なるものに対する敏感な恐れはずっとあったのだと思うのです。そんな恐れが、ここでは教会の中に満ちていて、それが礼拝につながるのです。少し飛ばして46-47節、そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。恐れの心をもっていた一同は、心を一つにして宮に集まっていました。宮というのは神殿ですから、当然そこで礼拝を捧げていたわけです。先ほどもお話ししたように、正しい恐れは礼拝を生み出すのです。

 それはさらに、教会の外、各家での食事の様子が描かれています。「喜びと真心を持って食事を共にし、神を賛美し」。礼拝という特別な時間、特別な場所だけの交わりを守っていたわけではありません。とても日常的な食事をしていたのです。戸の外に立って叩くイエス様を迎え入れるものは、イエス様と共に食事をすると言われています(黙示録3:20)。いわばその一人一人が、イエス様を中心とした食卓を囲んでいるということでしょうか。何か宗教的なものだけでなく、このような交わり、いわばイエス様との食卓を共有している生きた交わりがここに描き出されているのでした。

 

 そしてさらに具体的な共有として、44-45節があります。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。最初に注意しておきたいことは、これは強制されていたわけではなかったということです。また、これはこの後もずっとそうだったというわけではないので、ある程度の特殊な状況であると言った方が良いのでしょう。しかしそうでありながらも、ここには、教会が「交わり」、共有するものの集まりであることの大切な意味が込められています。いっさいの物を共有にしていた。それはいったいなぜでしょうか。それぞれの必要に応じて分配していたとありますから、その必要ある人々がいたということです。つまりこれは、貧しく弱い人々を、大切な家族、愛する兄弟姉妹として受け入れていたということであります。強制ではない、ということはルールとしてそうあったわけではなかったということです。少なくとも最初はそうではなかった。彼らがそのように共有していたのは、何かのルールなどにのっとったのではなく、彼らが共有しているイエス様ご自身の生き方に習ったのでした。そのイエス様の生き方は、どこまでも神を愛し、人を愛された生き方です。その眼差しはいつも弱く虐げられている人に向けられていました。そのお方の命を共有し、そのまなざしを知っている彼らだからこそ、彼ら自身もまたそのまなざしをもって生きていたのです。もっているものを分け与える。イエス様は、友のためにいのちを捨てるということより大きな愛はないと言われていますが、ご自身の命を、ご自身の敵となっている全ての人のために投げ出されたお方です。自己犠牲の愛などと言われますが、まさしくご自身を分かち与えておられる。そのいのちが私たちにも分け与えられているのです。まさに、彼らの、そして私たちの交わりの核であったイエス様がここに表されているのです。となりびとを自分のように愛するということ、それは喜びだけではなく悲しみや痛みさえも共に担うことです。決して外から強制されてできるようなものではないのです。このお方の愛を知り、愛の広さ長さ高さ深さを知った時にペテロのようにひれ伏し、このお方を心から恐れ愛し礼拝する者でなければ、その愛を外に向けることはできないのであります。

 分かち合う喜びという説教題をつけました。喜びを分かち合うだけではなくて、分かち合うこと自体が喜びなんだと、みことばの備えをしながら感じていたからです。喜びだけではなく悲しみや痛みさえも共に担う。これは決して当たり前のことではありません。この世の組織では、喜びを共に分かち合うことはあったとしても、それぞれの魂が抱えている悲しみや痛みを分かち合うということはなかなか難しいのではないかと思います。いや喜びであっても、他者の喜びを素直に喜べることができることは非常に難しいことなのではないでしょうか。むしろ嫌なことや悲しいことは一部の人に、それは大抵弱く低い人々にですが、押し付けようとする世界です。そのような世界で「分かち合う」こと自体が、しかも喜んで分かち合えること自体が、極めて貴重な、尊いものになっていると思うのです。生まれながらの罪人、愛することも愛されることも知らない私たちには、できないことです。血の繋がった家族でさえ恨み憎しみ、受け入れられなくなることがあることは、今日の社会でも大きな問題になっています。それはいつの時代であっても、人間の努力によっては獲得することができないものです。罪の最初、神様に背を向け、愛する人にさえ罪を押し付け責任転嫁をしてしまうような自己中心があるからです。にも関わらず、ここでイエス様を信じた教会が一つ心になって様々なものを分かち合っていたというのは、ここにイエス様のいのちがあり、私たちが本来の、安心して愛し・愛される関係に戻されているからに他なりません。イエスさまご自身を共有にし、イエスさまご自身につながる枝としての私たちであるから、どこかの部分が痛めば共に痛み、どこかの部分が喜べば共に喜ぶことができる。

 

4. まとめ

 もう最後にしますけれども、時に交わりに疲れてしまうことがあるかもしれません。救われたけれども未だ欠けの多い私たちですから、多くの失敗もします。教会の交わりに問題がないわけでは決してなく、実際そこで傷つき悲しい思いをされている方もいるでしょう。そんな時、私たちはこの、私たちが何を共有しているのかということを何度でも思い出したいと思うのです。決して人間的な好き嫌いで始まった群れではないということ。力ある人の元に集まる集団ではないということ。やはり私たちの中心におられるのはイエス様です。主にある交わりに生きることの土台には、主との極めて個人的な交わりに生きなければならないのです。私たちにはもう新しいいのちが与えられているのです。そして共に新しいいのちを生きる兄弟姉妹が与えられている。この豊かな交わりの中で、慰められ、力をいただきながら、新しい週の歩みを歩んで生きたいと思います。