■聖書:ヨハネの黙示録19章1-10節 ■説教者:山口 契 副牧師
■中心聖句:「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。…」ヨハネ黙示録19章 6-7節
はじめに
本日はこの後、臨時総会が持たれます。週報などでも知らされている通り、教会の大切な働きを担います役員の選挙、そして来年度からの主任牧師交代について審議されます。教会のこれからを話し合う大切な会議になりますが、このような会議のときには、一つ一つの審議を行うと同時に、教会がどこに向かっているのかを見失わないことが大切かと思います。来年のこと、或いはここ数年のことを具体的に決めていくわけですが、さらに大きな視点で、教会はどこに向かっていくのかをしっかり捉えておくことが、話し合われる具体的な活動や方針を定めるためにも必要不可欠なのです。
少し言葉を変えるならば、教会の完成はどこにあるのかを見失わないと言えるでしょう。それを教えているのが先程お読みいただいた本日の箇所、黙示録でした。この書が教える終末は、世界の終わりというおどろおどろしいものであるというよりも、「完成」や「完了」「成就」の意味を持っています。未来に何が起こるのかを予告しているというよりも、神様によって造られた世界がどのように完成していくのか、完結していくのかということを教えているわけです。その中で、教会もまた完成されていく。大きな目で見るならば、私たちの教会はまだその完成を目指して歩んでいる、未完成の教会なのです。間違えることもあれば、たくさんの弱さもありますし、世の波風にさらされることもある。それでも、やがての日の完成を目指して、この地上での営みを続けていくわけです。本日の箇所で教会は「花嫁」のイメージをもって語られます。花婿はイエス・キリストです。長く厳しい戦いは終わり、喜びの声が爆発している結婚式の祝いが描かれている本日の箇所から、「キリストの花嫁」と呼ばれる教会の姿を見てまいりましょう。
1. 黙示録19章、ハレルヤの大合唱
1-5節をお読みします。黙示録というのは、イエスの弟子であるヨハネに示された幻を書き記したものです。イエス様の十字架からおよそ50年後、ヨハネは島流しという刑罰を受け、パトモスという島で命を終えようとしているのでした。当時のクリスチャンは、キリストを信じるゆえにたくさんの苦しみを味わってきました。クリスチャンはまだ今日ほど多くはなかったので、何やら変な教えを信じている者たちだと噂され、皇帝ネロには放火の疑いがかけられ、さらに皇帝崇拝を否定することで、闘技場で獣と戦うという残虐な刑に処されたのでした。このような困難な中にあるキリスト者に向けて、神様は黙示録をもって希望を語りかけられているのです。目の前の強大な力を誇るローマ帝国やヨハネ自身が置かれている島流しの厳しい状況、或いはこれから先が見通せないような暗い将来にではなくて、やがての日に起こる大きな喜びに目を向けさせているのです。黙示録は確かに理解しがたいことがたくさん書かれている難解な書ですし、呼んでいくと怖くなるようなところも多くあります。けれども、その先には確かに大きな喜びが約束されているのです。
ここで何度も「ハレルヤ」という言葉が登場しています。今でこそ、教会の外でも聴くようになったこのことばですが、もともとは「神をほめたたえよ」という意味がありました。いよいよ今年もあと僅かですが、クリスマスシーズンによく耳にしますヘンデルのメサイア、その終盤にはハレルヤコーラスという有名な曲があります。まさにハレルヤの大合唱、神様をほめたたえる歌が響き渡るのです。
では、なぜそんな喜びの歌が爆発しているのか。1つ目の理由は、救いと栄光と力は私たちの神のもの。神のさばきは真実で正しいからである。神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。ここで注意したいことは、自分たちを苦しめていた敵が倒れたから、問題がなくなったから、ハレルヤと歌っているのではない、ということです。確かにその面もありますが、それよりも、神のさばきが真実で正しいから、ハレルヤ、神をほめたたえると歌っているのです。そのさばきとは、神様に敵対する者たちが滅ぼされるということです。時の大帝国ローマは誰もが認める最強の国でした。その知性は永遠に続くと言われていたほどのものです。人々の目には、絶対的な支配者であり勝利者であるのはまぎれもなくローマ帝国であり、その支配の中で苦しむキリスト者は弱者であり敗者、ローマ帝国が法であり正しいとされる世界の中では、間違った教えに生きる存在です。お前たちの信じる神はどこにいるのかと、十字架上のイエスが受けたようなあざけりの声が聞こえるようなローマ帝国の激しい迫害があった。私たちにしても、やはり数の上では少数派ですから、それゆえに厳しい思いを経験することがあるかもしれません。大人も子どももそうです。この世とは相容れないものですから、当然そこには摩擦があり、衝突がある。ないならば、それはそれで見直さなければならない点もあるでしょう。しかし神は、ヨハネを通してご自身の正しさを示され、神様を恐れる者には、大きな喜びがあることを教えられるのでした。神様は、この罪の世にあっていつまでも沈黙しておられない。神を信じるものを見失ったり見捨てたりはされないのだということを知り、「神のさばきは真実で正しい」ことを知って、賛美し礼拝しているのでした。
2. キリストの花嫁、教会 エペソ書5章
ハレルヤと声高らかに歌っている2つ目の理由は、6−8節で描かれています。6−8節。神の勝利、神の真実であることをほめたたえる賛美であふれた礼拝は、子羊の婚姻、結婚式の場面へと移ります。ここで、喜びの理由は子羊とその花嫁の婚礼であると言われます。まず、子羊とは何か。聖書全体を見ると、子羊とは神にささげるいけにえの動物、ほふられる、殺される生き物として神が定められたものです。そして新約聖書では、それが私たちの罪のために十字架にかかられたイエス・キリストであると教えています。黙示録においてこの子羊が最初に登場するのは、5:6で、ヨハネが目を上げると、そこには「ほふられた姿で子羊が立っているのを見た」とあります。一目でほふられたと見える子羊、その姿は生まれたばかりの、純白な美しい毛並みではなく、血にまみれた姿だったのではないでしょうか。しかし、子羊はその血のゆえに賛美されます。同じく5:9−10。彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」ひとつひとつを細かく見ることはできませんが、肝心なのはこの子羊とはほふられた子羊であるということ、そしてその血によって神のために人々をあがない、それゆえに、賛美を受けるべきお方であるということです。ここで言われている子羊とは私たちのために十字架を負われ、死なれた主、イエス・キリストにほかなりません。キリストとはギリシャ語で救い主、救世主です。同じ意味を表わすヘブル語はメシア、先ほど簡単に触れたメサイアです。神でありながらも、真の人として地上に来られたイエスキリストを歌うメサイアでは、このほふられた子羊のことを歌っており、さらにクライマックス、やがての日、天上でのハレルヤコーラスの荘厳な響きをもって神を褒め称えているのです。屠られた子羊の婚礼の時が来たのだから、喜び楽しもうと言われるのです。
そんな子羊の婚礼の時、用意ができたと言われる花嫁とはだれでしょうか。それが明らかにされるのは、少し先、21章1,2節。また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。ここで、花嫁は聖なる都、新しいエルサレムであることがわかります。これは新しい教えではなく、旧約の時代から度々言われてきたものであります。ここで言われているのは新しいエルサレムです。先ほどの五章での子羊への賛美をもう一度覚えますと、ほふられた子羊の血によって贖われた人々、この人々を王国、すなわち神の都のエルサレムとされるのです。子羊なるイエス様の血で贖われた存在、それはイエス様を信じるキリスト者、教会に他なりません。長くなりましたが、子羊の花嫁、キリストの花嫁とは教会なのです。ここで描かれるイエス様の姿は、王様のように剣を携えた力強い姿ではなく、血を流された、犠牲となった子羊です。その血は、私たちのために流されたものでした。花婿と花嫁としてのキリストと教会の関係を考えるときに、思い出す箇所がエペソ人への手紙5章です。結婚式のときに開かれる箇所です。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。夫と妻の関係をキリストと教会の関係から教えています。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられた」自分の命を捨てるほどの愛をもって、妻を愛するようにと教えられ、それはキリストが教会を愛された愛であると教えるのです。改めて、「子羊の花嫁」と言われている重みに気付かされます。
19章に戻り、花嫁はその用意ができたと言われます。婚礼の用意、それは光り輝く、きよい亜麻布の衣を着るということです。8節、花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」先程花婿であるキリストが、花嫁である教会のためにどれほどの愛を示されたかということを見ました。それは自分をささげる愛です。ささげるというのは言葉やポーズだけでなく、まさに罪赦すためのいけにえの子羊として、十字架にかかられたということです。「輝くきよい亜麻布をまとうこと」を許したのは、神様です。本当は私たちが受けるべき苦しみを、子羊が代わりに受けてくださったことを見て、この衣をまとうことが許された。私たち自身は汚く、弱く、欠けばかりです。子羊であるイエス様の花嫁として迎え入れられ、すばらしい婚宴の席につくことに全くふさわしくないのですけれども、イエス様の愛が、それをしてくださったのです。ですから、聖徒たちの正しい行いと訳されていますが、それは私たちの善い行いとかではなく、ただキリストの十字架の血によってしかなされえないのです。きよい麻布を着ることが許されたという表現は、花嫁を美しく飾る衣装が、自分たちの力によって勝ち得た者ではなく、ただ与えられたものであるということを教えているのです。このように整えられた教会が、イエスキリストの花嫁として招かれているのです。
このすばらしい婚宴の幻を見たヨハネは、御使いを礼拝しようとします。招かれているのは、すべての神のしもべ、小さい者も大きい者も、すべてのクリスチャンです。すべて神をおそれかしこむ者が礼拝に招かれているのです。それは何も人だけではありません。すべての被造物が、主を礼拝するのです。10節、私(ヨハネです)は御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。」御使いの言葉、「同じしもべです」とは、違う訳では「僕仲間」となっています。私はここに、私たちの毎週の礼拝のすばらしさを覚えます。小さい者も大きい者も、子どもも大人も、弱い者も強い者も、人も御使いも、みな同じ主人に仕える「僕仲間」、ともに礼拝をささげる、愛する兄弟姉妹なのです。これほどの壮大さを覚えて、主日の礼拝をまもっているでしょうか。
3. まとめ 花婿を待つおとめ マタイ25章
終わりの日、造られた世界が完成するときには、この盛大な結婚式が行われるのです。もちろん、イエス様を信じて、イエス様に繋げられた私たちの教会には、もうすでに、この恵みが注がれています。しかし完成の日には、それとは比べ物にならないくらいの喜びが満ち溢れるのです。それまでの地上の歩みがどれほど困難であろうとも、悲しみの涙があろうとも、必ずこの子羊の婚宴の祝いの席につき、喜び楽しみ、ハレルヤと歌い合う。それは「神の真実なことばである」と言われているように、確かなことです。だから私たちは、この完成の時を目指して、迫害の日も平和の日も主を礼拝し、私たちのためにいのちを捨てられ、やがて愛をもって花嫁を迎え入れてくださるキリストを見上げて歩むのです。地上の教会の歩みは、いまだ弱く、迷うことがあります。でも終わりの日、確かに完成に向けて歩んでいるということを忘れずにいたいと思うのです。それはマタイ25章にあります、ともしびをもって花婿を迎えに出る、娘たちのたとえ話のように、いつその時が来ても良いように、目を覚まし、しっかりと備えて生きることではないでしょうか。
教会は生み出されて終わりではなく、完成に向かって歩み続けるものであります。見るべきところを見上げ、約束を信じて、また新たに歩んでまいりましょう。