今週の礼拝メッセージ

2020年

2月

16日

哲学と福音

❖聖書箇所 使徒の働き17章16節~34節                  ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所の背景

 (パウロが)人々に守られて着いたアテネは、当時の知的世界の中心地でした。そこに住む人々は、哲学の歴史とその環境を誇り、近年、地中海一帯に広がりつつあった主イエスを信じる信仰、小さなアジアの国、ユダヤから始まった宗教には全く関心を持っていませんでした。それゆえ、パウロたちが世界の真理追求をリードしていたそんなアテネの人々に主イエスの福音を伝えたことは世界の歴史にとって画期的と言ってよい出来事です。

 

 哲学の中心、アテネにおいては、すべては創造から始まるという聖書の考えと全く違っていました。人の側が宇宙の真理、人生の真理を見い出すという人間中心主義の考え、文化でした。その典型がソクラテスやプラトンなどのギリシャ哲学です。本日の箇所においても、エピクロス派とかストア派という人々が言われていますが、アテネはそのギリシャ哲学の中心地でした。ちなみに、エピクロス派とは人の生きる理想は、外的な状況や欲望などに惑わされず、確立された心の平和、精神的快楽に達することが真の幸福であるという考えであり、ストア派は、宇宙の真理と一体になり、倫理的に正しい生活を送り、正義や他の人々への奉仕を行い、感情や衝動を制御する生き方をすることが人間にとって真理であるという考えです。このように、ギリシャにおいては、理性、経験を中心として、人生の真理を考えようとしていたのです。

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2020年

2月

09日

いのちの主

■聖書:出エジプト記2013節     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。 創世記127

 

 はじめに 

 本日の箇所は短く一節、「殺してはならない」というものです。十戒の第六戒に位置づけられていますが、この戒めは私たちに何を教えているのでしょうか。もしかすると、これを読んでホッとする方もあるかもしれません。これまで、第一戒から四戒まで、神様についての教えがありました。わたしの他に他の神があってはならない。偶像を造り、拝んではならない。主の名をみだりに唱えてはならない。安息日を覚え、聖とせよ。そして前回の第五戒では、すべての人間関係にも通じる父母を敬え。と言われていました。どれもこれも、なかなか難しいものではないでしょうか。ところが第六戒、殺してはならないと聞くと、これはまぁ大丈夫、セーフと思われるかもしれません。そもそも、こんなの当然じゃないかとも思える戒めです。子どもでもよくわかっています。しかし本日は、人類に共通して備わっているような道徳観(モラル)としての「殺してはならない」の戒めが、十戒の六番目に置かれていることに注目し、神様は神の民に何を望んでおられるのか、神の民がどのように生きることを願っておられるのかという御心を聞いていきたいと願っています。

 神様は、イスラエルの民を神の民、礼拝の民としてふさわしく整えるために、エジプトから連れ出し、約束の地へと導き入れる途上でこの十戒を与えました。律法というルールを与え、その道中で誰が本当の導き手であり、守り手であり、いのちの主なのかを教えられるのです。今私達が開いています十戒は、その土台部分です。神の民、礼拝の民として立つための基盤がここにはある。私たちがどのような夢を描き、計画するにしても、まずはこの土台部分をきちんと固め、その上で様々な事柄を成していかなければと改めて思わされています。どれほど立派で素晴らしいウワモノであっても、この土台がしっかりしていなければ簡単に崩れてしまいます。どんなに素晴らしい計画でも形だけのものになってしまうのです。十戒は十の戒めですが、前半部分は神と人についての戒めで、前回の第五戒から始まる後半部分は人と人とにおける戒めである、ということはこれまでにもお話してきました。イエス様が律法を要約されたように、前半の4つは神を愛する戒め、後半の6つは、隣人をあなた自身のように愛する戒めです。この大枠の中で、第六戒も見てまいりましょう。

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2020年

2月

02日

負けずに成長した人々

❖聖書箇所 使徒の働き17章1節~15節          ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について 

①パウロの第二次伝道旅行の続きです。まず、マケドニヤ州、テサロニケでの出来事です。ここでもパウロたちはいつもと同じようにユダヤ人の会堂に行き、彼らと論じ、自分たちが伝えているイエスこそキリスト、真の救い主であることを証ししています。

 一部のユダヤ人と神を敬うギリシャ人がパウロとシラスが語ることに耳を傾け、信じましたが、(中には高い立場にある人々の夫人たちもいました)、大半のユダヤ人はねたみと怒りの思いを持ったと記されています。彼らは、福音を受け入れていくユダヤ人やギリシヤ人が増えるのを黙って見逃すことができず、何としてでも福音宣教を阻止しようとして、街のならず者をかり集め、暴動を起こして街を混乱させ、パウロたちが活動拠点としていたヤソンの家を襲い、彼らを捉えようとしたのです。しかし、捉えることができなかったのでヤソンと幾人かのクリスチャンを捕縛し、町の役人たちのところに連れて行き、大声で告発したのです。

 彼らが言っている理由を見ると、キリストを信じる者たちを非常に危険視していることが分かります。6~7節「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。ヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」カエサル、ローマ皇帝に反逆して世界中に混乱を起こしている輩である、彼らを放っておくと帝国の秩序そのものが危なくなると告発しています。どんな手段を用いても福音宣教を阻止しようとするユダヤ人たちの固い思いが伝わってきます。

②そんな危険な空気を感じた信徒たちは、このままでは危ないということで、その夜のうちにパウロとシラスをベレアに送りだしたのです。

 こうして危険から逃れ、別の地に来て、通常の感覚であるならば少し休養しようとなるのですが、パウロたちはここでもすぐにユダヤ人の会堂に行き、主イエスの福音を伝えたのです。このベレヤのユダヤ人たちはこれまでの多くのユダヤ人と違っていました。彼らは、「非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書~旧約聖書のこと~を調べた」のです。その結果、パウロたちが伝える主イエスこそ旧約聖書が告げているメシヤ、救い主であるとの確信を持ち、福音を信じたのです。また、会堂に集っていたギリシャの貴婦人たち、多くの男たちも福音を受け入れたのです。

 このようにベレアでみことばを信じるユダヤ人、ギリシャ人が増えていましたが、またしてもテサロニケのユダヤ人たちがはるばるやって来て、群衆を扇ぎ立てて騒ぎを起こしたのです。本当に執拗です。それで兄弟たちはパウロを海岸まで連れて行き、ともにアテネに向かう船に乗ってアテネまで送ったのです。

 

 テサロニケとベレアの非常に対照的な反応が記されている本日の箇所ですが、このところには二つの重要なことが言われています。

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2020年

1月

26日

義しい人の苦しみ

聖書箇所  ヨブ記42章1節~6節            説教者 川口 昌英 牧師

◆(序) ヨブ記について         

①ヨブ記は、神を信じる者になぜ苦しみがあるのかという義人の苦しみが主題になっています。

 この書は大きく分けて三つの部分からなっています。まず物語の導入の部分です。主人公であるヨブという人物の紹介、そして義人の苦しみがとりあげられるようになる背景の部分です。

 続いて、主題をめぐってのヨブとヨブを慰めに来た三人の友との対話の部分、そして、終わり、この問題についての神からの答えの部分です。このようにこの書の構成は、舞台劇のように分かりやすく、また主題もすべての人にとって身近ですから古くから多くの人々の関心を集めています。

 

②最初にプロローグです。1章を見ますと、ヨブという人物が非常に正しい、神を敬う歩みをしていた人物だということが分かります。そんなヨブに対して、神に敵対する存在であるサタンが神に、あなたがヨブの生活を祝福しておられるから、ヨブはあなたを愛し、従っているのです、そういった祝福されたものが奪われるならば、ヨブはきっとあなたを呪うでしょうと神に挑戦したのです。なぜ、このようなサタンの挑戦を受け、その通りになることを許されるのか、理解できない思いがありますが、とにかく神はヨブから全てのもの、10人のこども、全ての財産が奪われるのを許したのです。しかし、こんな大変な経験をしながら、ヨブは「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1章21節)と語り、その信仰はゆらぎませんでした。自分が神を信じているのは、生活が祝福されているからではないと告白したのです。そんなヨブに対して、サタンは執拗にさらなる試練を与えることを神に挑戦しています。ヨブは自分の命の危険がなかったから激しい苦難にも耐えることができたのだ、信仰が揺らぐことがなかったのだ、もし、自分の体、命が危険になるなら、きっと彼はあなたを呪うでしょうと神に再度、挑戦したのです。神は、サタンのその言葉をも許し、ただヨブ自身の命に手を出してはならないとしましたが、ヨブは足の裏から頭のいただきまで悪性の腫物で覆われる重い病気になり、肉体的に非常に苦しむようになったのです。

 

 変わり果てたヨブを見て、ヨブの妻は「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを硬く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」と言いましたが、ヨブ自身は「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けるべきではないか。」と言い、このような状態になっても罪をおかすようなことを口にしなかったのです。サタンがいくらヨブでも自分自身の身に危険が及ぶならば、信仰が揺らぐだろうと挑戦したことに対しても変わらずに神に対する信仰を告白したのです。彼は、サタンの考え、挑戦は間違っていることを証明したのです。さまざまなことが恵まれているから、また自分が安全に守られているから神を信じているのではないことを明らかにしたのです。すさまじい信仰告白です。

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2020年

1月

19日

主にある関係

■聖書:出エジプト記2012節     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。

エペソ人への手紙61

 はじめに 

 出エジプト記を連続して読んでいます。エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民を、神様は不思議な御業をもって助け出し、約束の地へと導かれるその途上で、十戒という神様からの十の戒めを与えられました。これは救い出された神の民として、どう生きることが神様に喜ばれるのか、何が本当に幸いな生き方なのかが示されている教えです。その中で、今日は五番目の戒めを共に見てまいりましょう。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

 この「父と母を敬え」という戒めが、十戒の中でもこの位置に置かれているということはとても重要な意味を持っています。そもそもこの十戒は律法の中心に当たるものですが、イエス様はこれらの律法全体を二つに要約できると言われています。一つは神を愛すること(第一〜四戒)、そしてもう一つは人を愛すること(第五〜十戒)です。この十戒は二枚の石の板に刻まれたと言われていますが、この第五戒はその二枚目の板、人に対する戒めの最初に位置しているのです。なぜこの戒めが人に対する戒めのうち最初に置かれているのでしょうか。ここではすべての人が持っている親との関係について教えていますが、ある意味で当たり前のようにも思えるようなことです。この後の第六戒には「殺してはならない」、七戒には「姦淫してはならない」とものものしい戒めが続きますから、なぜ、わざわざ最初にこれをおいたのかということを押さえておく必要があるのです。それは、後でも触れますが、人を愛するということは、この父と母を敬うことから始まる、すべての人間関係がここから始まるということを意味しているのです。

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2020年

1月

12日

長年の課題

❖聖書箇所 使徒の働き16章35節~40節        ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について

 短い箇所ですが、使徒たちの国家に対する姿勢が明らかになっている箇所です。釈放を告げられたパウロとシラスが、不当な仕打ちを受けたことに対して、ローマ市民権を持つ者として長官たちに謝罪を求めていることから、使徒の国家に対する姿勢がわかります。

 外国人がローマ市民権を持つことは、例えて言えば、外国籍の人が日本国籍を持つようになり、日本国憲法、法律の適用を受け、それらが定める権利義務を持つようになることです。ローマ市民権を持つ者は、投票権を持ち、士官になることができ、犯罪の嫌疑を受けても丁重に扱われ、刑罰に関しても笞打ちの刑や十字架刑を課せられることはなく、また判決に対して不服がある場合、皇帝に上訴することができました。パウロは、生まれながらそのローマ市民権を持つ者でした。ローマ市民権を持つ人々は時代とともに多くなっていますが、パウロの時代は外国人がローマ市民権を持つことはまだ珍しかったのです。おそらくパウロの先祖がローマ帝国に貢献し、その功績のゆえにローマ市民権が与えられたものと考えられています。30節では、シラスもまたローマ市民であったと記されています。

 そういう二人が前回の箇所にあったように、いわれのない理由により、捕えられ、弁明の機会も与えられず、いきなりむち打たれ、投獄され、足枷をつけられたのです。ローマ市民権を持つ者に対する重大な権利侵害であり、侮辱です。

 

 なぜ、逮捕された時、自分たちはローマ市民権を持っていると言わず、釈放されることが決まった時に、実はローマ市民権を持っていることを言ったのでしょうか。おそらく役人たちは聞く耳を持たず、少しも信用されなかったからではないかと思います。しかし、この時は彼らが大地震の中で落ち着いた行動をしたことにより、一目置かれるようになり、役人たちも彼らのことばに耳を傾けるようになっていたからではないかと思われます。

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2020年

1月

05日

世の光として輝く教会

■聖書:ピリピ人への手紙212-18      ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

                                ピリピ人への手紙2:16

 

はじめに 

 今年の年間聖句を昨年の秋頃から祈り考えていましたが、先程お読みいただいた箇所の一節、「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです」としました。一年で最初の主日礼拝ではこの与えられた聖句から聞き、御言葉を味わう礼拝の一年を始めたいと願っております。

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2019年

12月

29日

聖霊はともにおられる

❖聖書箇所 エペソ人への手紙 5章15節~21節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)御霊についての聖書の教え

①一年の終わりの週にあたり、信仰生活を送るうえにおいて重要な役割を果たす聖霊についてみことばから教えられることを願っています。 

 聖霊について考えるうえにおいて、最も大切なのは、表れが違うが、父なる神、御子なるキリストと同じ本質を持つ神と言うことです。(三位一体の神の第三位格) 異端が言うように、神の力や息ではなく、神ご自身であることです。ある神学者は、父なる神、子なるキリスト、聖霊の三位一体の神の本質について、交わりの神と言います。聖霊は、父なる神や御子なるキリストと同じ本質を持ち、同じ目的のために働く、深い交わりを持つ方であるということです。

 聖霊の存在や働きを見直す必要があると強調するあまり、聖霊だけを突出させて、父なる神や御子なるキリストと一体であると明言する聖書から逸脱するような言動、例えば聖霊は、聖書とは別に新しく自分に真理を示された、自分を特別に導かれたと言う人がいますが、却ってそれは聖霊の根本的性質を理解していない姿です。

 真に聖霊に導かれている人は、決して高ぶったり、さばくようなことはせず、むしろ、父なる神、御子が忍耐強く人を愛したように、へりくだり、廻りの人々が真理を知るように愛を持って接するのです。

②父なる神、御子なるキリストと同じ本質を持つ神である聖霊の特徴は、信仰生活の現場で働くということです。

 基本的に一人ひとりに働く方ですが、時にはもっと広く、信ずる者全体のうちに働かれることもあります。(使徒の働き4章31節)

 では聖霊は具体的にどのように働かれるのでしょうか。聖書は次のように言います。聖霊は、まず人々に人生の真理を悟らせます。人が生きるうえにおいて何が最も大切であるか、どのように生きるべきかに気づかせ、信仰に導きます。(ヨハネ16章7節~13節、第Ⅰコリント12章3節) そして、その教えられた真理、神の御心に従って生きるように、それぞれの本質、深いところに働きます。又、人の霊と心を照らすことによってみことばの意味を悟らせ、深く慰め、励まし、そして力づけるのです。(第Ⅱコリント1章3節~5節) 

 

 このように聖霊は、一人ひとりの生涯において豊かに働くことによって、主イエスの栄光を表すように導くのです。(ヨハネ16章14節)

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2019年

12月

22日

クリスマスの輝き

■聖書:ヨハネ1章9節、マタイ4章15-16節    ■説教題:『クリスマスの輝き』

■中心聖句:すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

(ヨハネの福音書19節)

はじめに 

 クリスマスおめでとうございます。クリスマス(Christmas)というのはキリストのミサ、つまりイエス・キリストを礼拝する日というのがそもそもの意味です。世間では様々に彩られ、華やかなこの日ですけれども、この日の本当の輝きはイエス様が生まれられたということにあります。このことを、みなさんとともに覚え、心からのおめでとうを言い合えたらと願っています。

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2019年

12月

15日

恵みとまことに満ちた方

❖聖書個所  ヨハネの福音書1章1節~18節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖説教の構成

◆(序)使徒ヨハネが記す主イエスの姿

①マタイやルカが御子の誕生について詳細に記すのに対し、ヨハネは、その出来事そのものについて記していません。象徴的表現で神の御子がこの世に来られたことを表現しています。

 ❶「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(9節) 

 ❷「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(14節)  

 

 ❸「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(18節) など。

 

 

②救い主の誕生に関して、登場人物や場面や起こったことではなく、先のような記述をしているのは、次のような理由があります。ヨハネがこの福音書を書いたのは、主イエスの昇天後、約50年以上も経った後であり、主の誕生の経緯、様子についてはマタイやルカによって記され、教会の中に定着しており、改めて書く必要がなかった、一方、主イエスについて教会の中に影響力がある誤った教えが入りこんで来ていたことから、主イエスはどのような方であり、何のために来られたのかをより明瞭に伝える必要があったのです。(20章31節) そのため、主イエスはどのような方であるのか、私たちに何をなしてくださったかをあらためて伝えるために、先にあげたような特別の言い方をしていると思われます。では、中身を見て参ります。

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2019年

12月

08日

二つの名前

■聖書:マタイの福音書11825節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイの福音書121節)

 

はじめに 

 アドベント、待降節の第二週となりました。本日は、クリスマスに生まれたお方の二つの名前が登場する箇所を開いています。最初に申しますと、それは別々のことではなくて補い合い、神の子が人として世に来られたということの意味を教えてくれる二つの名前であります。マタイはイエス誕生の経緯を語るところですが、実際には、私たちがよく知る、住民登録のために故郷であるベツレヘムに来たとか、馬小屋で生まれたとかは書かれていません。出産そのものではなく、むしろ「イエス」という名前をつけるということに重きが置かれているようです。「イエス」、そして「インマヌエル」という二つの名前から、クリスマスの本当の喜びをまた味わいたいと願っています。

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2019年

12月

01日

王ではなかった

❖聖書個所 マルコ10章35節~45節      ❖説教者 川口 昌英 牧師           

◆(序)キリストの誕生とこの世

   アドベント第一週の今週はクリスマス、神の御子がこの地にお生れくださった目的について、みことばから共に教えられたいと願っています。

 よく話しますが、アメリカの著名な聖書学者がクリスマスのテレビ番組に出演した時のことです。冒頭、司会者がクリスマスの物語は、まことに美しく、世の人々は、幼子イエスがお生まれになるのを待ち望んでいたと口火を切りました。

 何人かが発言し、その人の番になった時、こう言いました。はじめの司会者の発言にふれて、「それには反対です。世の人々は、首を長くして幼子イエスを待っていた訳ではありません。そうではなく、反対に世の人々は、自分自身のことで忙しすぎて、キリストがお生まれになるための部屋すら提供しようとはしませんでした。そのため、主は家畜小屋の中でお生まれになったのです。それだけでなく、もし、神が御使いたちを送って羊飼いたちに告げず、又、星によって東方の博士たちをパレスチナに導かれなかったなら、だれ一人、キリストの誕生に気づかなかったのです。」そして続けた。「今も同じです。人々は、自分のことに気を取られるだけで、クリスマスの楽しみにふけりながら、幼子イエスについて短く口にするだけです。本当のキリストに関心を払う人はほんの僅かしかいません。人は今も尚、彼のための部屋を造ろうとはしないのです。」

 

 これを聞いて出席者は黙りました。待降節第一週のこの日、皆さんとともに、世に溢れる華やかなクリスマスではなく、神が与えてくださったクリスマス、華やかではないが、しかし、恵みに満ちたクリスマスを心に覚えたいと願います。

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2019年

11月

17日

キリストの花嫁

■聖書:ヨハネの黙示録191-10  ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。…」ヨハネ黙示録19 6-7

 

はじめに 

 本日はこの後、臨時総会が持たれます。週報などでも知らされている通り、教会の大切な働きを担います役員の選挙、そして来年度からの主任牧師交代について審議されます。教会のこれからを話し合う大切な会議になりますが、このような会議のときには、一つ一つの審議を行うと同時に、教会がどこに向かっているのかを見失わないことが大切かと思います。来年のこと、或いはここ数年のことを具体的に決めていくわけですが、さらに大きな視点で、教会はどこに向かっていくのかをしっかり捉えておくことが、話し合われる具体的な活動や方針を定めるためにも必要不可欠なのです。

 少し言葉を変えるならば、教会の完成はどこにあるのかを見失わないと言えるでしょう。それを教えているのが先程お読みいただいた本日の箇所、黙示録でした。この書が教える終末は、世界の終わりというおどろおどろしいものであるというよりも、「完成」や「完了」「成就」の意味を持っています。未来に何が起こるのかを予告しているというよりも、神様によって造られた世界がどのように完成していくのか、完結していくのかということを教えているわけです。その中で、教会もまた完成されていく。大きな目で見るならば、私たちの教会はまだその完成を目指して歩んでいる、未完成の教会なのです。間違えることもあれば、たくさんの弱さもありますし、世の波風にさらされることもある。それでも、やがての日の完成を目指して、この地上での営みを続けていくわけです。本日の箇所で教会は「花嫁」のイメージをもって語られます。花婿はイエス・キリストです。長く厳しい戦いは終わり、喜びの声が爆発している結婚式の祝いが描かれている本日の箇所から、「キリストの花嫁」と呼ばれる教会の姿を見てまいりましょう。

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2019年

11月

03日

キリストのからだの成長

■聖書:エペソ人への手紙416節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(エペソ人への手紙416節)

 

はじめに 

 週報にもありますように、本日は金沢中央教会の創立記念日です。67年目、67歳の誕生日、とでも言えるでしょうか。教会では毎月誕生者紹介を行っていますが、それぞれのお話を聞く中で、その人がこの一年をどのように過ごしてきたか、またどのような一年を期待しているのか知ることができます。中央教会もこの創立記念の日に、これまでの歴史の恵みを数え、これからの歩みを思い巡らし、期待するということになればと願っています。特に17日は臨時総会があり、役員選挙や主任牧師交代の議事を扱います。そのときに、今日の説教題にもしましたキリストのからだ、すなわち教会の成長ということを新たに覚えたいと思うのです。

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2019年

10月

20日

主の順序

❖聖書箇所 使徒の働き16章1節~10節          ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について

① パウロにとっては二回目の伝道旅行です。前回箇所で見たように、律法の知識や行いによらず、「信仰による義」が教会会議で確認されていよいよ確信に満ちて出かけています。

 

 パウロは、この二回目の旅において、まず、以前に福音を伝えた地方を訪れています。信じた者たちがどうしているかを知り、彼らを励ますためでした。この箇所には三つのことが言われていると思います。一つは、これからの異邦人伝道を共に担う人物たちが加わったことです。二つ目は、5節にあるように、異邦人地域でも教会が順調に成長していることです。三つ目は聖霊の導きによってエーゲ海を渡り、ヨーロッパ伝道が始まったことです。

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2019年

10月

13日

隣人となるために

■聖書:ルカの福音書1025-34節   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカの福音書1034節)

 

   はじめに 

 世界食料ディが今週16日にあります。週報にも記されていますが、私にできることは何だろうかということを、毎年覚えます。もちろんこの日だけでなく、この日から、それぞれ置かれた場所にあって何ができるのかを考え、一歩を踏み出す。そんな出発の時になればと願っています。しかし同時に、なかなかそれを出来ない私たちの心があることも事実です。日々の忙しさの中で、助けを必要としている人がいることを知りながら、なかなか行動に移せない。愛することに鈍いものです。本日与えられているみことばから、私たちが他者とどのように向き合うのか、教えていだきましょう。

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2019年

10月

06日

律法と福音

❖聖書箇所 使徒の働き15章22節~41節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について

 本日の箇所は、エルサレム会議の結論を異邦人の教会、シリアのアンティオキア教会に知らせている場面です。パウロとバルナバのほかに使者として立てられたユダとシラスが28節~29節にあることが伝え、その教会に大きな喜びがあったと記されているところです。

 

 この箇所には、もう一つ、パウロがバルナバに二回目の伝道旅行を提案し、バルナバも合意したものの、一回目の時に離脱したマルコを連れて行くかを巡ってパウロとバルナバが激しい議論を行い、とうとう袂を分かったことが記録されています。そのことについては、以前の礼拝説教において山口牧師が詳しく語りましたから、本日は、再び私たちの信仰の本質である「信仰による義」について集中してみて行きます。

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2019年

9月

29日

考えたことがない死

聖書箇所   テモテ第Ⅱの手紙4章6節~8節     説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)日本社会における死

 あらためて死について考えると、日本社会に潜む人生観に行き当たります。人生において最も大切なのは、真理や永遠ではなく、現世の幸福であるという考えです。それも、過去や将来の姿ではなく、今、現在が恵まれ、豊かであるという人生観です。

   死は、そんな幸いな集団からただ一人で離れ、暗闇に入る絶対的不幸と考えます。このよに、この国では、死は人生において大切な現世での存在、現在の姿が消滅し、全てのものから永遠に分離する不幸な出来事と見ています。こうして、死は、不気味な大きな力を持ち、人々を闇で覆っています。 

 

 他方、死は生の延長と捉え、また死後における裁きを信じていませんからどこか安らぎを感じています。それゆえ、死を意識し、向き合い、自分の生き方を深く考え、捉え直すということもないのです。古代インドの輪廻思想のように死を絶対的にするのではなく、自然な深い時の流れ、暗い川の流れに入り込むようなものとして見ています。

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2019年

9月

08日

信仰の本質

❖聖書箇所 使徒の働き15章1節~21節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について

 

 使徒の働きの続きです。本日の箇所は、パウロとバルナバによる第一次伝道旅行において各地で多くの異邦人が救われ、教会につながるようになったという報告を受けて、最初の教会会議が行われた場面です。

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2019年

9月

01日

安息への招き

■聖書:出エジプト記208-11節       ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書1128

 

 はじめに 

 説教題を毎回考えるのですが、もう少しやわらかいものにしてもいいかなと思っています。「安息への招き」は説教の要点を一言で言い表したものなのですが、もう少し砕くなら「ちょっとひとやすみ」とか、「一息入れて」とかになるかと思います。本日は十戒の第四戒、安息日についての戒めから、働くことと休むこと、そして主の日の礼拝について教えられたいと願っています。

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2019年

8月

25日

慰めの子、バルナバ

■聖書:使徒の働き436-37節     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

(コリント人への手紙第二 14節)

 はじめに 

 本日は聖書に登場する一人の人物の光を当てて、その人を通して表される神様の大きな愛を覚えたいと思います。聖書の中には様々な人が登場します。イスラエルの始まりの人であるアブラハムや、出エジプトのリーダーであり、十戒を授けられたモーセ、イスラエルの王様であるダビデやソロモンは教会に来たことがない方でも名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。新約聖書でも、イエス様の弟子たちの筆頭であるペテロや、宣教を担ったパウロといった名だたる人がいます。けれども本日、先ほどお読みいただいた箇所に出てくるバルナバという人はあまり知られていないのではないでしょうか。聖書の中でも数回しか出てこない人ですし、聖書以外のところでは名前さえ残っていないような人、その他大勢のうちの一人のような人かもしれません。けれども、このような人を通して神様の恵みは現れているのです。もちろん彼自身が特別なわけではなく、神様がこの人に目を留め、この人を用いて「慰め」を教えておられるのです。

 本日の箇所をもう一度お読みします。キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。元々の名前はヨセフでしたが、いわばあだ名のようにバルナバ、慰めの子と呼ばれていました。彼は仲間たちの中で「慰めの存在」と認められていたのでした。「慰め」と聞いてどんなことを思い浮かべるでしょうか。家族や友人に慰めてもらったことや、また自分の楽しみの中で慰めを見出すということがあるかもしれません。自分の抱えている悲しみや苦しみを埋めようとするのです。いわば失われてしまったものを埋めるように、マイナスのものをゼロに戻すように、そのような慰めを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし聖書が教える慰めというのはどうやらその程度のものではなく、ゼロにしてなお余りあるものを与えてくれる力強いものであることがわかるのです。本日のバルナバが、なぜ慰めの子と呼ばれるようになったのかはわかりませんが、このあとにも、慰めの子にふさわしい生き方を彼はしていきます。パウロとマルコという二人の人物に巡る、慰めのエピソードを見てみましょう。

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2019年

8月

18日

日本とキリスト教

❖聖書箇所  ヨハネ1章9節~18節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)明治維新とは

 日本の近代は明治維新によって始まったとされている。明治維新は、各地において植民地を求

めていた列強に対等に対応できなかった幕府に代わり、中央集権国家を出現させ、列強に対抗しうる国家を実現した画期的出来事として捉えられ、それにより成立した明治国家は、近代国家としての体裁を持つようになったと教えられている。

 

 薩長土肥出身者を中心にした明治新政府は、倒幕理由の一つとして掲げた尊皇の精神、天皇による祭政一致を前面に出し、五箇条の御誓文を基本とする新政府方針を発表し、新しい国家の創出を目指すことを内外に明らかにした。(「広く会議を興し万機公論に決すべし」「上下心を一にして盛に経綸を行ふべし」「官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す」「旧来の陋習(ろうしゆう)を破り天地の公道に基くべし」「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」の五か条)

 

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2019年

8月

11日

主の御名を呼ぶ

■聖書:出エジプト記207節   ■説教者:山口契 副牧師

■中心聖句:あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

ローマ人への手紙 815

1.        はじめに 

 出エジプト記も十戒に入り、今日は第三戒、主の御名をみだりに口にしてはならない、と言う箇所から見てまいります。これまでの訳でしたら、みだりに唱えてはならない、だったでしょうか。口にするというのはそれよりもさらに広い範囲にまで、この神様の名前に対する恐れを持つ、ということが言われている印象を受けます。私たちは祈りや賛美の中で神様の名を呼びますが、その名を呼ぶということについて、教えられてまいりましょう。

 度々お話することですが、十戒とは二枚の石の板に刻まれた十の戒めのことです。エジプトから導き出されたイスラエルの民たちは、神の民としてふさわしく整えられるためにこの戒めが与えられたのです。私たちは「戒め」と聞きますと、何か拒絶反応のようなもの感じます。そこには不自由のイメージがあるからです。また、もう新約聖書の時代だから、古い旧約聖書の戒めなんて聴かなくてもいいと思うのかもしれません。古い時代の十戒は、今の時代に適していないと思われるかもしれない。けれども、やはりここにも神様の愛があらわされており、神の民を通してこの世界を祝福しようとされるために必要な、重要な戒めなのです。もう少し言えば、今の時代の私たちにとっても少しも色褪せないメッセージをもって私たちに迫ってくるのです。二つの板と言いましたが、それはまさしく後の時代、人となられた神様であるイエス様が言われた、律法の要約を反映します。律法の中でどの戒めが一番重要かと尋ねる人にイエスは言われました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これが、重要な第一の戒めです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言う第二の戒めも、それと同じように重要です。」神を愛することと、人を愛すること。十戒の二枚の板もまさにこれを表しているのでした。十戒の前半部分は「神を愛すること」について、後半部分は「人を愛すること」について、それぞれ教えている戒めであるのです。もう今となっては時代遅れであり廃れてしまった古臭い教え、ではなくて、まさに今日に至るまでイエス様を信じるもの、神の家族とされた私たちの生きる指針ともなる、戒めなのです。

 本日はそんな前半部分、「神を愛する」ための第三戒を見ていきます。第一戒は「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」、第二戒は「偶像を造ってはならない」というものでした。それに続けての本日は、まことの神さまの名前を呼ぶということについて教えられています。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」最初からまとめのようなことをお話しますが、これは禁止命令のようで、そうではありません。そのネガティブな響きだけではないのです。「みだりに」ではなく、「正しく、ふさわしく」主の名を口にする、積極的に神様の名前を呼ぶことができる、それを神様が求めておられるのだということです。当たり前ではない素晴らしい権利が与えられているということをともに覚えましょう。

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2019年

8月

04日

キリスト教迫害の歴史

❖聖書箇所 ダニエル3章8節~15節                  ❖説教者 川口昌英牧師

◆(序)キリスト教迫害の歴史

 

 先ごろ、潜伏キリシタンの地域、長崎、熊本がユネスコの世界遺産として登録され、にわかに脚光を浴びている。しかし、この認定は誇るべきものとは言えない。なぜなら、この潜伏キリシタンの歴史こそ、他方において、キリスト教迫害の歴史を示しているからである。

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2019年

7月

28日

嘆く者と進む者

❖聖書箇所 出エジプト16章1節~12節       ❖説教者 川口 昌英 牧師  

◆(序)この箇所について

 本日の箇所は、約四百年に渡って奴隷として従属させられていたエジプトから脱出し、約束の地カナンに向かう途中に起きた出来事です。恵みを受けながら、すぐに忘れてしまってつぶやき、不信に走っている民たちの姿が記されています。

 よく言うことですが、聖書が人間的に、選ばれた民にとって不利と思われるようなことを敢えて残しているのは決して偶然ではありません。事実であったからですが、しかし、実際にあったことが全て記載されているわけではありません。明らかな目的があります。神のメッセージを伝えるために、選民とされた者たちにとって不利と思われるようなことも残しているのです。

 

 そのような思いをもって本日の箇所を見る時、奴隷の状態から解放され、約束の地に向かっているという祝福された状態にありながらつぶやいた姿から二つのことを教えられます。 一つは神の豊かな恵みを受けながら、人は、なぜつぶやくのかということです。もう一つは、同じ状況にいながら、つぶやかず、信仰を持って進もうとしている者がいるということです。

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